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61番 伊勢大輔 いにしへの奈良の都の八重桜

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〈八重桜は九重に咲く〉 いにしへの奈良の都の八重桜けふ九重ににほひぬるかな 宮中に出仕することになった女房は通り名を使います。伊勢大輔の家は代々伊勢神宮の神官を務めていたので、伊勢大輔と名のりました。曾祖父の大中臣頼基、祖父の能宣、父の輔親、代々勅撰集に入集している家は「重代」(じゅうだい)と呼ばれる特別な存在でした。特に祖父は後撰集撰者です。伊勢大輔は周囲の大きな期待を背負って出仕し、「じっちゃんの名にかけて」すばらしい和歌を披露しました。 伊勢大輔の個人歌集が何種類か伝わっていますが、それらの詞書をまとめると、八重桜を中宮彰子に贈ったのは奈良の興福寺の扶公法師、先輩の紫式部が、「今年の受け取り役は新人にまかせたわ」(=今年のとりいれ人は今参りぞ)と伊勢大輔に役を譲ったそうです。 和歌が評判になる 3 つのポイント。すばやく詠む。その場にあるものを詠む。掛詞、縁語などの技巧を使う。伊勢大輔の歌はすべての要素を完璧に満たしていて、調べも美しかったので、〈よくできました〉の最高評価をいただきました。 光琳かるたの取り札には、八重桜のほかに和紙と文箱が描かれています。歌学書の「袋草紙」(藤原清輔)に、伊勢大輔は和歌を詠むよう言われて、文箱を引き寄せ、墨をするわずかな間に「いにしへの」の歌を思いついたとあるので、その場面を絵にしたようです(文 野澤千佳子) ★ 使用した画像:東京国立博物館蔵 源氏物語図屏風(初音・若菜上)、東京国立博物館蔵 源氏物語図屏風(絵合)出典: ColBase (https://colbase.nich.go.jp) ◉ご支援ください◉ 新型コロナで自粛により大きな影響をうけましたが、この逆境をバネに新しい事にチャレンジします。この機会に皆様が文化芸術を楽しむ機会を一つでも多く、微力ながら作っていきたいと思っています。野澤千佳子が台本を書き、金子あいが自宅で演出、出演、撮影、デザイン、編集の全てをコツコツ一人で作っているYouTube動画「おうちで読もう百人一首」。シリーズ化のご要望を受けて、全国からタニマチ的ご支援をいただけましたら幸いです。 =========== 「投げ銭」口座 ゆうちょ銀行 〈郵便局からの場合〉 記号:10030 番号:39639061 〈銀行からの場合〉 店名:ゼロゼロハチ 店番:008 普通預金 口座番号396

9番 小野小町 ~深草の少将~

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      能「通小町」より、涙にくれるふたり。 左 深草少将 右 小野小町 ~深草の少将~ 「浅草だか、深草だか…」ビデオの中では名前もあやふやでしたが、深草の少将の百夜通いのエピソードは、能「通小町 かよいこまち 」「卒塔婆小町 そとばこまち 」などに描かれています。九十九日通ったところで力尽きた少将の妄執が、死んだ後も小町にとりついているという哀れなお話。    能「通小町」より 深草「小町!ぼくをおいて一人で成仏しないで」小町「……」 ↓このHPでとてもわかりやすく紹介されています。 the  能.com  https://www.the-noh.com/jp/ 能「通小町」 かよいこまち   https://www.the-noh.com/jp/plays/data/program_023.html  なお、上の2枚の絵は、著作権の関係で画像を使用できないので、ちょちょいと野澤が描きました。能の所作って、手の使い方がとてもきれいですね。 ~小町文塚 ふみづか ~ ラブレターのお墓は京都の随心院 ずいしんいん にあります。お寺のある一帯はかつては小野氏一族が住んでいたところだそうです。京都市営地下鉄東西線「小町」駅下車。駅名まで小野。  随心院 小町文塚 小町「あら、なんだか立派な塔がたってるわ。すご~い」 =では、以下、しょうしょうマニアックなお話を= 歌論議(うたろんぎ)~しぢのはしがき~ 百夜通いの原型は「歌論議」にあると、平安末期の歌学書『奥義抄』(おうぎしょう 藤原清輔著)が紹介しています。男性の求愛を断り続けたという小野小町の伝説が、以下に紹介する歌論議の説話と合体して、架空の人物、深草少将の百夜通いの説話が生まれました。 信貴山縁起より                       榻(しぢ)は、牛車から牛を外したあとの轅ながえを置く台。踏み台にも用いた。  むかし、なかなか思いどおりにならない女に求婚する男がいた。愛しているよと言ったところ、女は試してみましょうと言って、男がなんども通ってきては声をかけていた場所に〈しぢ〉を置いて、「この上で百夜続けて夜を明かしたら、あなたの言うことを聞くわ」と言った。そこで男は雨の日も風の日も、日が暮れるとやって来てはそこで横になっていた。〈しぢ〉の端にそこで寝た夜の数を刻んでいるのをみると、九十九夜になった

9番 小野小町 秘密のベールはそのままに

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<秘密のベールはそのままに> 花の色はうつりにけりないたづらに我が身世にふるながめせし間に  秘密のベールにつつまれた小野小町は〈六歌仙〉の一人。〈六歌仙〉とは、古今集仮名序で紀貫之がとりあげた、九世紀後半に活躍した6人の歌人のことです。小町は「いにしへの衣通姫の流なり、あはれなるやうにてつよからず、いはばよき女のなやめる所あるに似たり―しみじみとした思いがあふれているようで、はげしさはなく、言うならば高貴な女性が思い悩んでいるような風情だ―」と批評されています。  衣通姫(そとほりひめ)は、その輝きが衣を通してあふれ出すほどだったという伝説の美女。衣通姫のようだという噂がうわさを呼び、さまざまな小町伝説が生まれました。京都の随心院には「小町文塚(こまちふみづか)」があります。たくさん届いたラブレターのお墓。燃やして灰にしないのは小町のやさしさだと思うのだけど、そのやさしさが、深草少将の九十九夜通いの伝説を作りだしたともいえます。    小野小町のほんとうの姿は和歌の中にかくれています。小町の和歌は調べがとても美しく、声にだしてよむと魅力が倍増します。美女という評判だけが一人歩きするのはとても残念。ぜひ声に出してお読みください。(文 野澤千佳子)→さらに解説「おうちで読もう百人一首」https://koten-fun-club.blogspot.com ★典拠 深草少将の百夜通い→謡曲「通小町」「卒塔婆小町」など。 ★使用した画像:出典:ColBase (https://colbase.nich.go.jp) 東京国立博物館蔵 源氏物語図屏風(初音・若菜上)部分 東京国立博物館蔵 源氏物語図屏風(明石・蓬生)部分 ◉ご支援ください◉ 新型コロナで自粛により大きな影響をうけましたが、この逆境をバネに新しい事にチャレンジします。この機会に皆様が文化芸術を楽しむ機会を一つでも多く、微力ながら作っていきたいと思っています。野澤千佳子が台本を書き、金子あいが自宅で演出、出演、撮影、デザイン、編集の全てをコツコツ一人で作っているYouTube動画「おうちで読もう百人一首」。シリーズ化のご要望を受けて、全国からタニマチ的ご支援をいただけましたら幸いです。 =========== 「投げ銭」口座 ゆうちょ銀行 〈郵便局からの場合〉 記号:10030 番号:396390

57番 紫式部 幼なじみとめぐり逢う物語

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めぐり逢ひて見しやそれとも分かぬまに雲隠れにし夜半の月かげ ~幼なじみとの出会い~  百人一首の紫式部の歌は、幼なじみの月子(仮名)との、束の間の出会いを詠んだものです。ふたりが出会った時間と場所については諸説あります。「めぐりあひて」の歌や新古今集の詞書を素直に読むと、空に月が出ている夜、どこかのお屋敷で会ったととれますが、姫がほんとに真夜中にでかけるの? という疑問が、脚本を練っていく過程で出てきました。現代の私たちなら出かけるかもしれませんが、平安主婦の月子(仮名)が真夜中に出歩くことはないかも…。そこで、牛車と牛車ですれ違ったという説を採用して、イメージを膨らませました。牛車の御簾ごしに中に乗っている人がわかるの?牛車がすれちがったときに、昔の彼女の顔がみえたので、和歌を贈ったという例がいくつかあります。 ~紫式部と和歌~  久しぶりに幼なじみにあったうれしさ、すぐに別れなくてはならなかった残念な気持ち。和歌からストーリーが浮かび上がってくるのは、さすが、紫式部。『源氏物語』には作中人物が詠んだ和歌が約800首あります。気弱な和歌、強気な和歌、わざとかみあわない返事の和歌、紫式部が場面の人物になりきっていろいろ詠み分けています。 ~ 「夜半の月かげ」か、 「夜半の月かな」か~  第五句「夜半の月かげ」は、教科書などでは「夜半の月かな」となっています。「月かげ」は〈月の光〉。「月の光」!と言い切るか、「月だなあ」としみじみ詠嘆するか。ふたつある本文のうちどちらが好き?という問題です。  なんで本文が2つもあるの? →続きは近日中に、座付き作家・野澤千佳子の〈中の人〉、鳥井千佳子が 書き足します。鳥井千佳子は説明しだすと長いので(2020/06/09記) ★使用した画像について 源氏物語絵色紙帖 夕霧 詞花山院定熈 出典:ColBase(https://colbase.nich.go.jp/) 平治物語絵巻 六波羅行幸巻 出典:ColBase(https://colbase.nich.go.jp/)を加工して作成 ◉ご支援ください◉ 新型コロナで自粛により大きな影響をうけましたが、この逆境をバネに新しい事にチャレンジします。この機会に皆様が文化芸術を楽しむ機会を一つでも多く、微力ながら作っ

42番 清原元輔 波は末の松山を越え、冠は落ちるもの?

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~末の松山とは~  「 君をおきてあだし心をわがもたばすゑの松山浪もこえなむ」(古今集・陸奥歌) (末の松山は高台にあるので、波が越えるはずがない、ぼくの心も一緒、浮気なんて絶対しないよ) 「末の松山」は古今集の陸奥歌を下敷きにした、ちょっと特別な地名です。「末の松山を越えたりしない?」「うん、ぜったい越えない」は、「浮気したりしない?」「うん、絶対浮気しない」という意味。泣きながらあんなに約束したのに、いったいどうして、と元輔さんは言います。「ちぎりきな」の「き」は直接経験の過去の助動詞。元輔さんの経験談ですって。ほんとかな。 ~清少納言パパ~   元輔の娘、清少納言は『枕草子』*のなかで「歌よむと言われし末々」(著名な歌人の子孫)と自分のことを言っています。自分がつまらない歌をよんだら、亡くなった父や祖父に申し訳ない、だから、でしゃばって歌を詠みたくないとも。祖父は 36 番清原深養父。父の元輔は『後撰和歌集』の撰者。あの清少納言に、撰者の子が下手な歌を詠むわけにはいかないと思わせるほど、大きな存在だったのです。   *『枕草子』5月の御精進のほど ~冠落ちちゃった事件~  歌人として尊敬されていた元輔の、冠落ちちゃった事件は『今昔物語集』『宇治拾遺物語』などに載っています。落馬して冠が脱げたのに、見物していた若い殿上人たちに、馬は悪くない!私のあたまには髷がないのだから、冠が落ちてもしかたがない!などと演説してまわって、みんなを笑わせました。   * 『今昔物語集』巻28-6 歌読元輔賀茂祭渡一条大路語  **『宇治拾遺物語』巻13-2 元輔落馬の事 (文:野澤千佳子) ◉ご支援ください◉ 新型コロナで自粛により大きな影響をうけましたが、この逆境をバネに新しい事にチャレンジします。この機会に皆様が文化芸術を楽しむ機会を一つでも多く、微力ながら作っていきたいと思っています。野澤千佳子が台本を書き、金子あいが自宅で演出、出演、撮影、デザイン、編集の全てをコツコツ一人で作っているYouTube動画「おうちで読もう百人一首」。シリーズ化のご要望を受けて、全国からタニマチ的ご支援をいただけましたら幸いです。 =========== 「投げ銭」口座 ゆうちょ銀行 〈郵便局からの場合〉 記号:10030 

64番 藤原定頼 シティボーイの誤算!ゲストは60番小式部内侍

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     かるたの名品、光琳かるた。読み札(上の句)には歌人絵、取り札(下の句)には和歌の内容にあわせた絵が金箔の上に描かれています。 64 番「朝ぼらけ」の歌を詠んだ藤原定頼は、 60 番小式部内侍の歌の取り札にも後ろ姿で登場しています。  4 番目の勅撰集「後拾遺和歌集」の恋の部には、定頼が詠んだ恋の歌は採られてないのに、「中納言定頼がもとにつかはしける」のように、女性たちが定頼に送った恋の歌が 5 首も採られています。いったいどういうことでしょう。なかでも、大和宣旨とよばれる女性は、訪れが途絶えた定頼にあいたくて、賀茂まで追いかけていき、物陰から定頼の姿をみて胸をこがしたとか(無名草子)。  定頼がお付き合いをした数多くの女性たちのなかに、小式部内侍がいました。母は天才歌人といわれる和泉式部。小式部内侍の歌はまだ注目されていませんでしたが、歌合に参加することが決まりました。通常の歌合は前もって歌題が与えられ、歌を準備していきます。母の和泉式部は、その頃、夫とともに丹後国に赴任して京都にいません。定頼は軽い気持ちで、「お母さんに頼んで、代わりに詠んでもらった歌は丹後からとどきましたか」とからかいますが、即座に 60 番「大江山」の歌で逆襲されます。京都から丹後に行く道筋にある、生野、大江山、天の橋立という地名をなめらかに詠み込み、掛詞も駆使するという神技。「大江山」の歌によって、小式部内侍の歌人としての評価はぐんと高まりました。  「朝ぼらけ宇治の川霧」と定家好みの格調高い和歌を詠み、美しい容姿で女性をとりこにした定頼の、「絶え絶えに」(ところどころ)ダサい失敗談のひとつ。 60 番小式部内侍の歌の取り札に描かれた後ろ姿には哀愁が漂っています。(文:野澤千佳子) ◉ご支援ください◉ 新型コロナで自粛により大きな影響をうけましたが、この逆境をバネに新しい事にチャレンジします。この機会に皆様が文化芸術を楽しむ機会を一つでも多く、微力ながら作っていきたいと思っています。野澤千佳子が台本を書き、金子あいが自宅で演出、出演、撮影、デザイン、編集の全てをコツコツ一人で作っているYouTube動画「おうちで読もう百人一首」。シリーズ化のご要望を受けて、全国からタニマチ的ご支援をいただけましたら幸いです。 ===========

97番 藤原定家 その1 幕府に忖度?

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〜勅撰集の編纂は国家プロジェクト〜  勅撰集はいわゆる国家プロジェクト、天皇や上皇の命令で撰集が開始されます。勅撰集に和歌が選ばれることは、歌人たちの悲願でした。たとえば『方丈記』の作者の鴨長明は、自分の和歌が7番めの勅撰集である「千載和歌集」に一首選ばれたことを心から喜んでいます(『無名抄』)。ましてや、勅撰集を選ぶ立場の撰者になることは、当代一の歌人であることの証明、とても名誉なことでした。                                   藤原定家は2度、勅撰和歌集の撰者になっています。一度目は8番めの勅撰集である「新古今和歌集」、この時は撰者が6人いて、後鳥羽院も積極的に口出ししました。二度目は「新勅撰和歌集」、この時は定家が単独で撰者になりました。 〜後鳥羽院は隠岐の島へ、順徳院は佐渡島へ〜 「新古今和歌集」の完成後、承久三年(1221)に朝廷が幕府の討伐を計画して失敗し(承久の乱)、後鳥羽院は隠岐の島へ、子の順徳院は佐渡島へ流されます。 文暦二年(1235)、「新勅撰和歌集」がいよいよ完成するかというころ、朝廷は、後鳥羽院と順徳院に京にお戻りいただきたいと幕府に申し入れますが、執権北条義時はそれを拒否。朝廷は幕府の意向を忖度して、ほぼ出来上がっていた「新勅撰和歌集」から後鳥羽院と順徳院の和歌を削除するよう命じ、定家は指示に従いました。 後鳥羽院と順徳院の和歌は、定家の息子の藤原為家が撰者となった10番目の勅撰集「続後撰集」で復活します。(野澤千佳子) ◉ご支援ください◉ 新型コロナで自粛により大きな影響をうけましたが、この逆境をバネに新しい事にチャレンジします。 この機会に皆様が文化芸術を楽しむ機会を一つでも多く、微力ながら作っていきたいと思っています。野澤千佳子 が台本を書き、金子あいが自宅で演出、出演、撮影、デザイン、編集の全てをコツコツ一人で作っているYouTube動画「おうちで読もう百人一首」。シリーズ化のご要望を受けて、全国からタニマチ的ご支援をいただけましたら幸いです。 =========== 「投げ銭」口座 ゆうちょ銀行 〈郵便局からの場合〉 記号:10030 番号:39639061 〈銀行からの場合〉 店名:ゼロゼロハチ 店番:008